Nature Photograph & Essay  里山自然探訪 2005年06月12日号
                                             撮影:兵庫県社町/2005年06月03日
封印された死/クビオレアリタケ

  冬虫夏草に取り憑かれたトゲアリの死骸を見つけた。枯れたコナラの枝先を抱きめる小さな命の終焉である。天に昇らんと、ありったけの力で枝の上へ上へと昇り詰め、あと数歩で力尽きたのだろうか。しかし、その灰色に変色した複眼は、大いなるものの懐に抱かれ、至福に浸る表情にさえ見えてくる。神に召されたものの、封印された死の時空がそこにある。
  クビオレアリタケはトゲアリの頸部や胸部に生える冬虫夏草の一つ。1935年に千葉県で発見されたという。冬虫夏草はその気になって探してもなかなか見つからないものだが、このクビオレアリタケはその中でも珍品。寄主のアリ自体が小さいから、なかなか目に止まらないのも一因なのだろう。
 冬虫夏草と聞いて真っ先に思い出すのは馬俊仁コーチが率いた「馬軍団」。1993年の世界陸上選手権大会で驚異的に世界記録を次々とぬりかえ、スポーツ界の話題をさらった。そのパワーの源が冬虫夏草入りドリンクだった。中国の宮廷では、強精強壮や不老長寿の秘薬として珍重された冬虫夏草。十数種類のアミノ酸の他、カルシュウム、鉄、亜鉛、マンガン等の15種もの微量栄養素を含み、β−グルカン、エルゴステロール・パーオキサイト等の制ガン作用物質、免疫力を増強するコルディセプス酸、コルディセピン、さらには不老長寿を司る脳内ホルモンのメラトニンをも含む魔法のキノコなのだ。
 冬虫夏草はバッカク菌目バッカク菌科のキノコの仲間。バッカク菌はイネ科の花につき、籾が黒い角状に変形する。麦角(ばっかく)の名のとおり、当然麦にも発生する。中世のヨーロッパ南西部、貧しい人々もライ麦の栽培を始めた。これに冒された小麦と知らずに作ったパンを食べ、「聖アントニーの火」と呼ばれるエルゴトキシンによる麦角中毒が彼らの間で頻繁に起きたという。心筋の撃縮や痙攣、幻覚を伴うてんかんの後、四肢が黒ずんでくずれ、ついには脱落する恐怖の奇病だった。約1万人が罹病し、93人が死亡したという50数年前のロシアの例もあるので、また何処かで火を噴きかねないから要注意だ。麦角から麻薬(LSD)も作られる。その成分は、僅か10万分の1グラムで幻覚症状を起こすというから凄まじい。
 虫の体に貼り付いた冬虫夏草菌の胞子は、呼吸器、消化器官、関節の柔らかい皮膚などから体内に入り込み菌糸を伸ばし、タンパク質、脂肪、体液を栄養に菌核を作り、虫の体をどんどん蝕んで行く。菌の餌食となった虫の末期は、人の麦角中毒症のように、朦朧となり、痙攣し、迷走し、ダッチロールを繰り返しながら息絶えるのだろう。
 アリの頸部から伸び出たこの灰褐色の未熟なくさびらは、梅雨の盛りになれば6〜7oの子実体となり、子嚢果をつけ、奇妙な芸術ともいえる死の形を完成させ、辺りのトゲアリたちに再び胞子をばら蒔くに違いない。
 人にもまた手に負えない病魔が取り憑く。詐欺師、悪い女や男、胡散臭い新興宗教、(もう我が国ではないかもしれない)危険思想等々。知らぬ間に心の綻びから忍びより、終いに骨の髄まで食い尽くしてしまう。冬虫夏草は寄主と菌が一体となって作り出す奇怪な造形物となって残り、高価な食材や、貴重な医薬となるものもあるが、怪しげな輩に蝕まれた人間は、腑抜けとなって路頭に彷徨い、果ては哀れな屍に。一面では、人は虫よりつまらないと、黒い小さな虫の安らかな永遠のまどろみを見ながら思うのである。
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