Nature Photograph & Essay  里山自然探訪 2005年06月25日号
                                             撮影:兵庫県神戸市/2005年06月17日
雑草の血脈/チガヤ

  夏至の空に拡がる灰色の薄い雲の切れ間に、時折り白い陽が顔を出す。その柔らかな光に照らされ、ため池の土手のチガヤの穂が金色の矛先のように煌めく。ふわふわの長い絹毛を纏った小穂は、 「茅花流し」の風に乗り、白い絮(わた)となって、一つ、また一つと飛び去って行く。
 チガヤと戯れた思い出が、舌先のほのかな甘さとなって蘇る。学校の帰り道、河原の土手にランドセルを放り投げ、チガヤの地下茎を掘り出し、穂を抜いて遊んだ。乳色の茎にこびりついた土を払い落とし、口に含む。ほのかに土のにおいを感じながら、カリカリと咬めば、微かに甘い汁が口腔に拡がった。柔らかい未熟な穂ばかり選んで、抜き取っては次々に頬張る。茎と同じように、穂も甘かった。チガヤが、子供のままごとやおやつであった時代の記憶である。
 紀女郎は「戯奴(わけ)がためわが手もすまに春の野に 抜ける茅花ぞ食(め)して肥えませ」と、細身の貴公子だったという大伴家持に戯れの歌を贈った。チガヤの若い花穂はツバナやチバナと呼ばれ、穂も地下茎も古くから食料にされていたのである。食料にと留まらず、成熟した穂は火口に使った。茎や葉は、言うまでもなく茅葺き屋根の材料。根茎は漢方薬の「白茅根」で、止血や利尿の効用で知られる。チガヤは、今日の日常生活ではほとんど活用されることはないが、かつては随分と有用な植物であった。
 神戸市の西隣に小さな町がある。稲美町という。地図を広げると、その南東に印南が、その西に蛸草が並ぶ。幾多の故事を秘めた地名に違いない。「印南野の浅茅(あさぢ)押しなべさ寝る夜の け長くしあれば家し偲はゆ」は、山部赤人が聖武天皇の随員として、726年10月10日頃から1週間程、印南野に程滞在した時の歌という。印南野とはこの稲美町の古名。万葉集には、印南野、印南野原、いなみの名を詠み込む13首もの歌がある。この地は正に万葉の里である。
 今日では、チガヤの根や穂を食み、飢えを満たす人などいない。白い穂が目立つ季節以外、ほとんど見向きもされない、あまりにありふれた「雑草」である。だが、1200年以上もの昔、このチガヤの草原を草枕に、故郷を思い、星を眺め、長い夜を過ごした大詩人があったと知れば、この草の群を「雑草」と一瞥して過ぎることはできない。この一帯のため池や畦を一面に覆っているのは、この上代の詩人の床となったチガヤの血脈。毎年変わることなく、綿々と世代を重ね、春には末黒野を若緑に染め変え、初夏になれば白い絮が風を呼び、秋が訪れると紅色に葉を染める。
 梅雨の晴れ間の鈍い陽の光に、チガヤの穂が風に揺れ、銀色の光を返す。万葉の歌人がつい先ほどまで寝ていた温もりと体臭が、絮に包まれ舞飛んで行きそうな、なま暖かく湿っぽい仲夏の風が吹き続く。
 チガヤもまた、見る度に様々な思いが巡り、ただ漫然と見過すことのできない「雑草」の一つなのである
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