Nature Photograph & Essay  里山自然探訪 2006年05月11日号
             ハナミズキ(紅花種):撮影:兵庫県神戸市/2006年05月11日
白い記憶と紅の夢/ハナミズキ
 
  その木の花の塊は、車列の左斜め遠方に白くぼんやりと浮かぶように現れた。それは、桜は疾うに散ってしまった若葉の季節だったはず。逆光の所為で緑を更に濃くした木々の葉の重なりを背に、初めて見るその花は数本の壮齢の木を覆うように咲いていた。電車がその白い霞のような花の群の正面に近づき、辛うじてヤマボウシの花のような4枚の総ぼう片を見定めた途端、車窓の遠く後方に幻のように消え去ってしまった。
 中央線沿線の大きな公園の端だった、と思う。これがハナミズキとの最初の出会いである。都会暮しの不安や寂寥感ばかりでなく、雨上がりの薄暗い光の演出もあったのだろうか。その花は妙に白々として、随分妖しく映ったから、白い花の記憶となって鮮烈に焼き付いてしまった。田舎から上京して間もない大学生には、都市的な景観に見事に組み込まれた、美しく端整な樹型の満開のその花木は、何ともあか抜けた風景に見えたのだった。それ以来ハナミズキは、晩春から初夏に移ろう季節の花として、気がかりな植物の一つとなったのである。
 今では街路樹や庭木として珍しくない花木だが、日本のハナミズキの渡来の歴史も首都に始まる。明治45年、東京市長であった尾崎行雄が、アメリカ合衆国にソメイヨシノなどの桜の苗木3100本を送った逸話はよく知られている。あのポトマック河畔の桜である。その返礼として大正14年に同国から東京市に日米親善の木として送られたのが、30本のハナミズキの白花種の苗木だった。これは日比谷公園や百花園など16カ所に植えられたという。翌々年には、紅花種の苗木10本と台木用の種子が都に送られた。さらに昭和12年、白花種3000本、紅花種1000本などが寄贈送られたことで、都民に広く知られるようになったのだ。私が見たハナミズキもその樹齢からすれば、昭和初期に送られた木々だったのだろう。
 我が町内にも毎年綺麗に咲くハナミズキの並木あるけれど、身近に眺めたいからと、数年前自宅の庭に紅花種を1本植えた。あの白ではなく、敢えて紅花の品種を選んだ。この花木は肥沃でやや湿潤な土質を好み、日当たりの良い場所が適地という。その上、夏場の乾燥を嫌うらしい。狭い我が家の庭で、ハナミズキの栽培に打って付けの条件を作り出すのは至難だから、遠い記憶の木々のようにこんもりと咲いてくれるのは遥か先のことに違いない。毎年のように、庭のあちこちを、ここは駄目、あそこも駄目と移植をくり返しながら、薄ぼんやりと紅色に染める大木に仕立て上げてみたいのだ。
 さて、あの白い記憶の花は、今もあの場所にあるのだろうか。いつの日にか、いや来年にでも、都心を走る車窓から記憶の奥底の木々を探し出してみたい。あの時と同じように青時雨に、あの白く霞むハナミズキの花の風景を見てみたいと、この花の季節の度に思うのである。
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