家から一番の近場の林を歩いてみた。長年伐採されることもなく放置されたままの広葉樹の多い残存林だ。高木に囲まれているから、林道も薄暗いが、所々にパッチがあって、その林の切れ間だけが明るい空間となっていて、そこで思わぬ昆虫に出合って驚くことがある。この残存林は私にとって、手近で自然に浸れる在りがたい場所なのだ。そろそろ昆虫の出始める頃と、またこの林を覗いてみたのである。
林に入って間もなく、黒い地に黄褐色の水玉模様の翅を持つ、一見ベッコウガガンボのような昆虫を見つけた。他にもいないかと注意して歩くと、彼方此方のマダケや木の幹にへばり付くように止まっているのを20頭近く見つけることができた。
帰宅後調べてみると、ハマダラハルカ(Haruka elegans Okada)と判った。漢表記では「羽斑春蚊」となる。ハエ目の中では原始的なグループで、ハルカ科に属し、日本では1属1種という。驚いたのは環境省のREDの情報不足に指定されている貴重な昆虫であったこと。その他、京都符、岡山県など7府県でREDに選定されており、各地で稀少な昆虫とされているようだ。
和名で察しが付くように、早春の3〜4月の僅かな期間に羽化する年1化性の昆虫だ。年に1度だけ早春に羽化する昆虫と言えば、春の妖精と呼ばれるギフチョウを思い浮かべる。ハマダラハルカの学名の種小名はelegans。正真正銘のエレガンスなのだから、こちらも春の妖精の名を張ってもちっとも恥ずかしくないだろう。
成虫は林間の低空を素早く飛翔して、交尾のために立木に集合する。雄は木の幹の上を三段跳びのように30p程飛んで暫く休み、またこれをくり返す行動を見せてくれる。雌は林床に落ちているネムノキの朽ち木の皮下に産卵し、約10日で孵化し、幼虫は樹皮直下にトンネルを作って喰い進んで行く。そして、幼虫期間はほぼ1年と長い。
ハマダラハルカは中部以西の本州、四国、九州に分布する日本固有種だ。ハルカ科は日本産を含めて世界で3属3種のみで、他は、ロシア沿海州のウスリーハルカ(Cramptonomyia
spenceri)と北米太平洋岸(アメリカ合衆国とカナダの国境付近)のヒゲナガムモンハルカ(Pergratospes
holoptica)が知られるだけである。太平洋の両岸の狭い地域に隔離して生息する不思議な分布となっている。このような分布パターンは顕花植物にも知られていて、第三紀周北極要素(東アジア・北米要素)と呼ばれる。これらの種は、気候の温暖な第三紀には北極を取り巻くように分布していたが、寒冷な気候の第四紀になると、南北に山脈が連なる東アジアと北米の温帯部に南下して移動したのである。一方、ヨーロッパでは東西に連なるアルプス山脈が、アジア中部では広大な乾燥地によって移動を阻まれ、多くの種が絶滅したと見られている。
さらに、第四紀には氷期と間氷期がくり返され、その度に生物は南下や北上、低地や高山へと移動をくり返し、遺存種を生み、地域的な種分化を起こす要因となった。ハマダラハルカは、第三紀周北極要素の植物相に依存して日本に南下し、日本の温帯林に生き残った昆虫の一つという訳である。
街のはずれの小さな残存林にひっそりと生きている1p足らずのハエが、我々人類より遙か太古より生き続けていた訳で、日本列島の生物相の成り立ちを教えてくれる貴重な昆虫であったとは実に驚きである。手近に自然に浸れるこの残存林が、これでまた一層楽しみを秘めた場所になったのである。
〔撮影:2009年03月25日/兵庫県神戸市〕 |
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